蝦夷日記

機会費用考えてから読んで

今年を振り返ろう

共通テストまでもうあと1か月しかないのかよ!?

去年と違って今年はな~んも成長しなかった一年だなあ~wwww

 

数学とか英語は特にそうなんですけど、高校までは、学校で習った内容が全部将来に活かされるんです。例えば、中一で一次方程式を習ったら、その知識は中三の高校入試や高三の大学入試でも活かされる(というか活かさざるを得ない)。小中高では、そういう「将来に繋がる」知識を毎日教え込まれていたわけです。つまり、(半強制的とはいえ)毎日将来に向けた投資を行っていたんです。

今はどうですか。もう全然ですよ。期末レポートを書き終えたら、もうその講義の知識は全部忘れてしまっても問題ないんですよ(覚えていて損はない!みたいなことは抜きにして)。

※大学1回生で習った内容も卒論で活かされるでしょ?と思ったそこの君!!!我らがH大学は、総合教育部というよくわかんない制度を設けている。要するに、1回生の間は、経済学部も教育学部も医学部もみんないろんな学部のいろんな講義を取れるのだ!!!(良く言えば幅広い教養を身につけられる制度、悪く言えば専門科目を学べる期間が他大学より1年少なくなってしまう制度。)

 

人生の中でもこれほどにまで成長の少なかった年はないですよ。むしろ劣化した?集中力もなくなり、物忘れも激しくなってしまいました。

去年より成長した点といえば……料理のレパートリーが増えたことと、タイピングが速くなったことくらい。それ以外はゴミですね、もう死んでしまえ。

 

一応サークルにも入ったんですけどね、なんせ旅行系サークルなので、このご時世にまともな活動ができるわけありますまい。対面授業もたった2回(!)しか実施されず、実際に会えた知り合いも数えるほどしかおりません(夏休みに、クラスメイト8名ほどと藻岩山に遠足に行って、ようやく交友関係ができました。てか遠足参加しなかった残りの32名はどうしてるんだ、まさか友達ゼロのままか)。

 

そういうわけで、コロナの影響もあり、2020年は大学合格をピークにどんどん下降していった年だったんじゃないでしょーか。来年はコロナ収まったら絶対道内旅行に行くぞ!!!あと神奈川に帰省も!!!

 

(参考文献)

石島土門「中世興福寺の関所支配と紀伊半島における活断層の変遷」(1987)https://www.youtube.com/watch?v=UDfnCqPt_pw

最終閲覧日: 2020年12月14日

 

古事記研究1(個人用メモ)

完全に趣味。見ても無駄。

別に専門知識があるわけでもない筆者が、古事記の記述を順に追って行って、考察するよー。「序」は省略、書き下しは中村啓信の「新版 古事記」に従う。

 

天地初めて發くる時に、

ここの「發」の字を「ひらくる」と読むか「おこる」と読むかでもう意見が分かれているらしい。本居宣長が35年かけておよそ9割を解読したともいわれる古事記だが、残りの1割をめぐった論争は数百年経った今でも続いているのである。

一つは、日本書紀では「昔、天と地が分かれておらず、陰と陽が分かれていない時…」みたいな記述だから、それに倣って古事記も「ひらくる」だろう、とする学説。もう一つは、日本書紀古事記は性格が違う、前者は外国(てか中国)に向けた歴史書で後者は国内向けである、したがって「天と地が分かれる」という陰陽思想っぽい書き方は日本書紀特有のものであって、古事記では「おこる」だ、という学説。

まあ確かに、最初の神様も全て「成る(≒自然発生する)」という考え方で行けば、「おこる」が正しく思えるような。字義的にも、「弓矢を放つ」みたいな意味が元らしい。この後の古事記の記述において、この陰陽思想に基づいた世界観が徹底されているとも言い難い。ともかくここで言えるのは、キリスト教天地創造と全然違うねってことだけである。

 

高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシ)、

要は、最初に高天原(≒天上界)にアメノミナカヌシという神様が出現しなさった、という意味。

古事記」で最初に登場する神、しかも名前の通り天上世界の中心である神なのに、この後一切活躍の場はない。それどころか、この神様を祭っている神社もゼロだったらしい(平安時代)。でもパズドラやってた人なら知っているかも?

なんでこんな重要な神様がマイナーなのか?個人的には「人間に直接かかわらないからマイナーになった説」がけっこうしっくり来ているように思う。この神はあくまで「高間原の中心」としての役割を持つ神であって、人間に直接的な恩恵/被害をもたらすわけではない(しかもこの後隠れちゃうし)。したがって、人々の信仰もそんなに盛んではない、という説である。

確かに「穀物の神様、いつも食糧をありがとう」とか「海の神様、いつも恵みをありがとう」にはなるが、「天のリーダーの神様、何やってるか知らないけどありがとう」にはならない。会社でも、自分と同じ課の先輩や上司とはよく話すけど、社長とはほとんど話さないし、社長が日ごろ何やってるかあんま知らないよね。

 

次に高御産巣日神(タカミムスヒ)、次に神産巣日神(カムムスヒ)。

次に出現した二柱の神(神様を数える単位は柱。トリビアの泉でやってたね)。「むすひ」というのは要は創造とか生成とか発生のことである。文学者にここ説明させると、ほぼ100%君が代の「苔のむすまで」の「むす」がそれである、と言ってくる。

この二柱の神は、アメノミナカヌシと違って後でまた活躍するシーンがある。タカミムスヒには「高木神」という名前で再登場。やっぱり木って神様なんだね。カムムスヒは後で他の神様を生き返らせたりしている。男塾で言うワンターレンみたいなもんである。

 

此の三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまふ。

はい、実は以上の神様には性別がないのですね。「独神」。

身を隠すっていうのはどういうことなのか、正直全然わからないというのが筆者の感想。単に「死ぬ」ということなのか?いや、日本の神様は基本死なないし、タカミムスヒとカムムスヒはあとで物語に登場してきている。じゃあ「役割を終えた」ということか?タカミムスヒとカムムスヒは「創造、生成」の神様。いやでも、前述にあるように、カムムスヒは他の神様を生き返らせてたりする。これは「生成」の役割を果たしていることに他ならないのではないか?じゃあ「信仰されなくなった」ということか?まあ確かに古事記が書かれた時点ではこの三神を祭っていた神社はなかったかもね。「姿がない」という意味か?確かに「太陽」や「月」と違って、「中心」とか「創造」っていうものには目に見える姿がない。ともかく、「死んだ」という訳がナンセンスである、ということだけは言えますね。

 

次に国稚(わか)く、浮ける脂の如くしてくらげなすただよへる時に、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯備比古遅神(ウマシアシカビヒコジ)。

地上世界がまだ若く、くらげのように漂っているときに、芽のように萌えるものによって、「ウマシアシカビヒコジ」という神が出現しなさった、みたいな意味。

この神の名前について、漢字に特に意味はない。まんま当て字である。古事記が成立した時代には、まだ平仮名がなかったため、このような表記になっている。「うまし」はそのまんま「良い、すばらしい」の意味で、「あしかび」はそのまま葦・カビ(イネ科植物の穂先)の意、ヒコは男性のことであると考えられている。つまり「あしかびの素晴らしい男の神様」。いやそのままかよ。

 

次に天之常立神(アメノトコタチ)。此の二柱の神も、みな独神と成りまして、身を隠したまふ。

やっぱり以上の二神も独神なのである。アメノトコタチに関しては、「トコ」が実は台地の意味だとか寝床の意味だとかいう説もあるが、あてられている漢字が「常」なので、「天上界の恒常性・永久性の神」という解釈が無難だろうと思う。

 

上の件、五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)。

以上の五神は特別な神様なので、「別天つ神」というグループ分けがなされている。重要な神様であるはずだが、この後も物語に登場するのは「タカミムスヒ」「カムムスヒ」の二神のみである。

 

次に成りませる神の名は、国之常立神(クニノトコタチ)。

さっきのアメノトコタチと対応している神であるのは確実だが、こちらは別天つ神でない。國學院(筆者の第二志望だった大学)の資料によると、「アメノトコタチ以前の神は天上界にしか関わらない神、対してクニノトコタチ以降の神は地上世界の形成にかかわる神だから」という理由でこのグループ分けがなされた可能性があるとか。ちなみに日本書紀では最初に出現した神とされている。なんで記紀で順番が違うのかは知らん。

 

次に豊雲野神(トヨクモノ)。此の二柱の神も、独神と成りまして、身を隠したまふ。

トヨクモノは文字通り雲の神。なんで雲の神様なんか出てくるんだと思うかもしれないが、雲は雨の源であり、特に農耕社会において非常に重要な存在である。古代の人々にとり、豊かな雲は非常に尊いものなのだ。(『豊』は雲ではなく野にかかっている、すなわち『豊かな雲の野』ではなく『豊かで、雲の覆う野』とする解釈の方が有力だけれど。)

 

次に成りませる神の名は、宇比地迩神(ウヒヂニ)。次に妹須比智迩神(スヒチニ)。

スヒチニの名に「妹」とついていることからわかる通り、ここで初めて「独神」ではない、男女が対になった神が登場する。古事記の記述だけだと何の神様か分かったこっちゃないが、日本書記の表記を参考にすると、どうも「宇」が泥で「須」が砂だとか。それで「ヒヂ」は土の意味、「ニ」は土の意味。土ばっかりじゃねえか(さすがに『ニ』は違う接尾語だろうとされている)。

いろいろ言いたいことはあるが、最後にまとめたほうが分かりやすい気がするので、先に進む。

 

次に角杙神(ツノグヒ)。次に妹活杙神(イクグヒ)。

これも男女一対の神様。「さっき泥と砂の神様が生まれたから、今度はそれらを固めて国土を形成する杙(くい)の神だ」という解釈もあるが、「クイ」は「芽ぐむ」の「クム」である、という説もある。あとで詳しく記す。

 

次に意冨斗能地神(オホトノヂ)。次に妹大斗乃弁神(オホトノベ)。

「オホ」は「大きい」の「オオ」と同じで美称、「ノ」はただの助詞、「ヂ」が男の意で「ベ」が女の意というのが一般的な解釈。つまり神名の核となるのは「ト」のみである(ぶっちゃけ「斗神」でもオッケーだったというわけである)。さっきが杙だったから次は戸、すなわち門戸だとする説、があるがぶっちゃけどれも違うと思う。あとで詳しく記す。

 

次に於母陀流神(オモダル)、次に妹阿夜志古泥神(アヤカシコネ)。

今までの男女一対の神様は、名前に共通性があったのに、この二神にはないですね。一般的には、「オモダル」の「オモ」は面、つまり顔、「ダル」は「足る」、つまり完成していてパーフェクトだ、という意味で取られることがほとんど。

これに対して「アヤカシコネ」……。受験生ならわかって当然、古文において「かしこし」とはすなわち「畏れ多い」の意、つまり「あやかしこし」で「ああ、畏れ多いです。」である。

だから、オモダルは「あなたの顔は完成して整いきっている」と言っていて、それに対しアヤカシコネが「畏れ多いです」と返答している…という解釈がある。セリフがそのまま神の名前になるなんて言うのは、古事記ではよくある話である。

 

次に伊耶那岐神(イザナギ)、次に妹耶伊那美神(伊邪那美)。

ここで初めてポピュラーな神様の登場である。パズドラやっていようがやっていまいが聞いたことがあるはず。名前の「いざな」はそのまま「誘う」のこと、つまり男女で誘い合う神だとされている。

 

上の件、国之常立神より以下(しも)、伊耶那美神より以前(さき)を、併(あわ)せて神世七代と称(い)ふ。

はい、というわけで以上が神世七代です。

「12柱じゃねえか!」というツッコミが入るかもしれないが、男女一対のニ神は、二柱あわせて一代である。

 

ウヒヂニ以降の神名については、以下のような解釈がある。

すなわち、「神の名が生命の形成を表している」というものである。

最初のウヒヂニ組は「泥と砂」、つまり生命(芽とか)の原質である。

次のツノグヒ組は「芽ぐむ」、つまり生命力の象徴である。

一個飛ばして、オモダル組は「容姿を褒め合う男女」、つまり男/女としての意識(顔?)の誕生である。

次のイザナギ組は「誘い合う」、ここでようやく男女が互いを誘い合い、初めて結婚する(後述)。要するに、ウヒヂニからイザナミまでの神名は、生命の原質から、新たな生命を生む(≒子孫を残す)能力を持つ男女が完成するまでの過程を表す、と解釈できる。これはすごいことだなー。

そうなると、飛ばしちゃったオホトノベ組の神名はどういう意味なのか。先に神名の核は「ト」であるとしたが、この「ト」は男女の性器ということになる(性交を「みとのまぐわい」と言うことが根拠となる)。こうしたらちゃんと生命の材料→生命力→男女の違い→男女の意識または顔→結婚という流れが完成するよねー、と。筆者はこの説を推したい。

 

ちなみにもう一方の解釈は

ウヒヂニ組の「泥、砂」は土地、ツノグヒ組は家屋を作る際の杙、オホトノベ組は「ト」、つまり門戸、これで家屋が完成するね、というもの。

これだと、イザナキ組で急に男女の結婚の話に移る理由が分からない、という点が弱いのである。「クヒ」だから杙だろう、「ト」だから戸だろう、という解釈もちょっと短絡的すぎる気がする。

ただ、あとでイザナキ・イザナミが地上に八尋殿=広い神殿を建てている、というところを考えると、この時点で家屋を担当する神様がいないとおかしい、と考えることもできる……。でも別にその神殿が杙と門戸を設けているとはどこにも書いていないし、あんまりあてにならない気がする。

 

以上のように、神世七代の神々に神名に連関があると解釈すると、生命の生成みたいなものがめちゃくちゃきれいに順序だてられて説明されていることが分かると思う。

まず、「クニノトコタチ」が、地上世界の恒常性を確保する。

次に、「トヨクモノ」が、地上世界の豊かさを確保する(※)。

そして、ウヒヂニ組からイザナキ組までの流れで、生命が完成する。

これ以降、神が「自然発生する」ものから、「親の神が想像する」ものへと変わっていく、このことからも、こちらの解釈の正当性をサポートすることができるように思う。

 

個人的に、「野」を「雲が覆う」ことは、地上世界と高天原が関係を保つことに繋がるのだとも思う。言わずもがな雲は地上と天の間にあるのであって、しかも雨=天からの恵みや、雷=天からの使い(あとで雷の神様が地上の神様と交渉ごとをしたりするよ)の発生源である。つまり、雲は天の神々と地上世界との中継地点である。天の神は雲を介して人間に影響を及ぼすのである。よって、ウヒヂニ・スヒチニが生まれる前にトヨクモノが出現しておくことには、「地上で生命が生まれる前に、先に天と地の連絡手段を確保しておく」という意味があるのではないか、と考えてたりする。

授業ズ

 実は私は経済学部を名乗っていながら後期はほとんど経済学に関する授業を取っていない!!!というのも、うちの大学は1年次に「全学教育」みたいなのをやっていて、1年生の間は学部とか専攻とか全然関係なしに勝手にいろんな分野の授業を取っていい期間なのだ!!!

 「とりあえず文系理系関係なしに全学部の授業置いとくから適当に好きなん取って行って~」という感じである。文系でも生物学とかの授業を取れるし、理系でも古事記とか伊勢物語とか読んでていい。よく言えばいろんな分野の先生のお話を聞くチャンス、悪く言えば高校生の続きである。

 

 後期授業にむけ本格始動し始めた私だが、取った授業のジャンルがバラバラすぎて早くも悪い予感である。以下の授業を一週間のうちに全部受けるとなると、頭が混乱してしまう恐れありである。

・ドイツ語クラシックの授業

・哲学の授業

・映画史の授業

・考古学の授業

アイヌ民族研究の授業

 一応経済学部らしく金融システムの授業も入れてみたが、多数決で言ったらどう考えても文学部の時間割である。とりあえずの精神で時間割を決めてしまうからこうなるのである。これと言って思い入れのある科目もないし、どうすれば。

 

 ちなみに前期はほとんど経済学に関する授業しかとっていなかった。

統計学

微分積分学

線形代数

マクロ経済学

ミクロ経済学

経営学(組織理論)

 「古事記を読む」という授業もとっていたけど、正直古事記は高校時代に5000回くらい訳書を読んでいたので楽勝だった。課題の量も前期のほうが少なかった気がするなぁ。あの頃に戻ってほしい!!!

 

とまあそういうわけで、僕の大学の1年生はまあまあ面倒くさいよということです。志望校悩んでたら参考にしろ!!!

他の第二外国語 偏見

・ドイツ語

 医学部用じゃんこれ。今思えば何で取ったんだろうなあ…

 

・フランス語

 個人的に一番無難だと思う選択肢。多分英語の次に強い。無難すぎて特に書くことがない。発音とかちょっと大変そう。

 

スペイン語

 正直今一番面白そうに見える二外。プロレス好きなのでちょっとだけわかる。「ロス・インゴベルナブレス」「カブロン」「ディスティーノ」「エンセリオ」「スイシーダ」など。スペイン語もやってみたかったと今になってやや後悔。多分履修者も全員プロレス好きである。それ以外は、本当は多言語がよかったけど抽選漏れしちゃった奴。

 

・中国語

 コレを選んだ奴はほぼ九割「みんなが選んでるから」「将来仕事でつかえそう」くらいのゆるい理由でチョイスしている(水虎兄貴みたいに外大っぽい所に通ってる場合を除いて)。過激派は「中国語を取らない=就職しないって意味だよ?将来取引先は全部中国企業だよ?」と言ってくる。が、正直、中国企業にも英語のできる人材の一人や二人いるだろうし、ぶっちゃけあんま使わないんじゃないかと思う。(どこの社長が、母国語(中国語)しか話せない社員に海外との取引を任せるだろうか?)

 

・ロシア語

 ロシア趣味のある奴らの隔離用。ソ連とロシア大好きな奴らが「将来使えるか?」とか「習得は簡単そうか?」とか一切考えず履修してそう。モチベーションはあるのでみんな成績高そう。SNSのアイコンソ連の軍人にしてそう。政治思想はそこまで赤くなさそう。

 

・韓国語

 「日本語とルールが似てて習得が簡単」「K-POP好き」以外の理由でこれを選んだ人はいない筈。だって冷静に考えてみろよ。せっかく覚えても朝鮮半島でしか使えないんだぜ? 日本に住んでるからよく見るだけだぜ? TWICEかBTSのファンじゃないとモチベーションの維持はかなり難しいと思われる。あとモチベになりそうなものと言えば、「朝鮮労働党新聞が読める」「朝鮮国営テレビのピンクのおばちゃんアナウンサーの言ってることが分かる」くらいでは。

第二外国語にドイツ語をとってみた

 ドイツ語の勉強を進めるにつれて、ドイツ語ではなく英語の魅力がわかってくるようになる。ドイツ語の文法の面倒くさいところを、英語はほとんど取っ払ってくれているのである(ネットの信用ならない情報によると、ドイツ語→オランダ語→英語の順で派生したらしい)。そりゃあ国際言語になりますわ。

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俺はドラえもんを超えた

 まず名詞に性がある。名詞一個一個に「性」が振り分けられているのだ(例えばコンピュータは男性名詞、マウスは女性名詞)。これは西方の言語を学ぶにあたってちょっと覚悟していたことだが、ここまで面倒くさいとは。フランス語は男性・女性の区別しかないのに、ドイツ語にはさらに中性もあるのだ(ドイツはバイセクシャルに寛容である)。そして名詞が男性か女性か中性か複数形かによって、代名詞はもちろん、名詞の前につく冠詞のつづりも変化するのである!!

 さらに名詞の格にもキビシイ。名詞が主格か属格か与格か対格かによってこれまた冠詞が変化する(「ある犬が」はein Hundであるが、「ある犬を」はeinen Hundである)。

 つまり、ドイツ語の冠詞は名詞の性と格によって4×4=16回の変化を残しているフリーザなど雑魚である(あと前置詞によっても冠詞のつづりが変わる)。

 あと名詞の複数形のルールも複雑で迷惑極まりない。英語では適当に語尾にsをつけておけば堂々と複数形を名乗れたが、ドイツ語では語尾にeをつける、enをつける、sをつける、その他のつづりが変化するなど様々なパターンが存在。

 英語では名詞のつづりと発音を覚えれば「その単語を知っている」と言えるが、ドイツ語ではそれに加えて名詞の性と複数形を覚えなければならないのだ!!

 

 ドイツ語は動詞にも厄介なルールがある。すなわち人称変化である。主語によって動詞の形が変わるのである。例えば英語のbe動詞は、主語によってamとかareとかisとか形を変えるだろう。これと同じ現象が、ドイツ語では全ての動詞で起こる(助動詞がつく文では助動詞のほうが変化)。変化の仕方は規則的であるものの、一部例外があり、そっちを覚えるのが面倒くさい。逆に言えば、英語はそのような煩わしいルールをほとんどの動詞で撤廃し、極度に効率化された言語なのである。

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「アルバイト」はドイツ語のarbeitに由来

 

二人称が二種類ある。すなわちdu(複数形ihr)とSie。duは友人や年下の相手に使うやつ、Sieは先生や年上の相手に使うやつ。こいつのせいで動詞の人称変化の種類も増えるので腹が立つ。英語のI, my, me, mineのようにドイツ語の代名詞も主格・属格・与格・対格によって変化するので、そっちの暗記量も増える。英語の“you”を見習え。

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 前置詞にも不愉快極まりないルールが存在している。すなわち「定冠詞との融合形」である。特定の前置詞が、定冠詞と融合して1単語になるのである。あんまりよい説明が思い浮かばないので詳しくは省略。

 

 最後に数字のルールをご紹介。英語で2はtwo、20はtwenty、よって22はtwenty-twoである。ドイツ語で2はzwei、20はzwantig、よって22はzwantig-zwei……ではなくzweiundzwantigである。つまり、「二十二」のことを「二と二十」と言っているのである。なんで一の位からだよ。しかもドイツ人は電話番号を二桁ずつ言っていく、つまり「4649」を「46と49」に分けて「6と40、9と40」という風に言い表すからもう駄目である。

 

 とりあえず既習の範囲でクソだなーと思ったドイツ語の文法は上みたいな感じです。あと単語が長いとか動詞が分離するだとか、全部上げてるとキリがない。英語は素晴らしいですね。非ネイティヴのことを考慮していない文法を全部排除してくれています(面倒くさい文法が読解のときに役立つこともあるけどね)。

 でも、こうして第二外国語を学んでいると、英語や日本語の特徴みたいなのが分かっておもしろーい!!ドイツ語を勉強すると、今まで不可解で仕方なかった英文法の意味が分かってきたり。というかドイツ語先にやらせてくれたら多分英語の習得もっと早かったで。語順以外は完全にドイツ語の簡易版やん。文部省は幼稚園の教育にドイツ語を取り入れろ。

 

第一志望に北海道の大学を選びまして、それでなんとか合格してしまったものですから、今私は札幌におります。

 

4月からこちらで一人暮らしを始めたんですけど、コロナで大学の授業開始も遅れてしまって。まtttったくやることもなく無為な日々を過ごしておりまして、もう気が狂いそうでした。

2月までは受験期だったのです、受験っていうのは人生で一番忙しい時期と言ってもいい時期で、でも友人と切磋琢磨する楽しさもあって、毎日駄弁りながら知識もつけていく、まあ忙しさと楽しさで充実した日々だったわけです。

それが合格発表後一気にやるべきことが無くなりましたから。「何もしなくても誰にも怒られない」というのは乳児期以来久々でした。この前まで人生で一番忙しい時期を過ごしていたのに、今度は一気に人生で一番暇な時期を過ごせと言われましたから、メンタルがズタズタにされたのです。

さらに、うちの大学は他大学より授業開始が遅かったんです。だから、高校の同級生らが先に大学で友人を作っていた。自分は同級生と会えなくなり一人で無為な時間を過ごし、一方その同級生らは大学の友人と一緒に履修登録なんかしたりして。自称野洲市で一番孤独になれている私でも相当しんどかったのです。

(いやマジでやることなかったし。受験期に作った「受験終わったらやりたいことリスト」みたいなんもコロナ自粛でほとんど消化できんかったし。確かに受験期は「はやく暇な日々が訪れますように」とか思ってたけど、まさかここまでやることないとは思ってなかったし。)

受験期は常に勉強してましたから、「自分が合格に向かって成長していってる」感があったのです。合格への道を一歩一歩踏みしめている感覚があったのです。しかし、受験が終了すると、毎日が味気なさ過ぎて、なんか同じ日がループしてるんじゃないか?という錯覚に陥いることさえありました。

今では大学の知り合いもでき、授業も始まって適度に楽しいです。もう二度とあんな暇な時間を過ごしたくありません!!!拙文で申し訳ない!!!