蝦夷日記

機会費用考えてから読んで

古事記研究1(個人用メモ)

完全に趣味。見ても無駄。

別に専門知識があるわけでもない筆者が、古事記の記述を順に追って行って、考察するよー。「序」は省略、書き下しは中村啓信の「新版 古事記」に従う。

 

天地初めて發くる時に、

ここの「發」の字を「ひらくる」と読むか「おこる」と読むかでもう意見が分かれているらしい。本居宣長が35年かけておよそ9割を解読したともいわれる古事記だが、残りの1割をめぐった論争は数百年経った今でも続いているのである。

一つは、日本書紀では「昔、天と地が分かれておらず、陰と陽が分かれていない時…」みたいな記述だから、それに倣って古事記も「ひらくる」だろう、とする学説。もう一つは、日本書紀古事記は性格が違う、前者は外国(てか中国)に向けた歴史書で後者は国内向けである、したがって「天と地が分かれる」という陰陽思想っぽい書き方は日本書紀特有のものであって、古事記では「おこる」だ、という学説。

まあ確かに、最初の神様も全て「成る(≒自然発生する)」という考え方で行けば、「おこる」が正しく思えるような。字義的にも、「弓矢を放つ」みたいな意味が元らしい。この後の古事記の記述において、この陰陽思想に基づいた世界観が徹底されているとも言い難い。ともかくここで言えるのは、キリスト教天地創造と全然違うねってことだけである。

 

高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシ)、

要は、最初に高天原(≒天上界)にアメノミナカヌシという神様が出現しなさった、という意味。

古事記」で最初に登場する神、しかも名前の通り天上世界の中心である神なのに、この後一切活躍の場はない。それどころか、この神様を祭っている神社もゼロだったらしい(平安時代)。でもパズドラやってた人なら知っているかも?

なんでこんな重要な神様がマイナーなのか?個人的には「人間に直接かかわらないからマイナーになった説」がけっこうしっくり来ているように思う。この神はあくまで「高間原の中心」としての役割を持つ神であって、人間に直接的な恩恵/被害をもたらすわけではない(しかもこの後隠れちゃうし)。したがって、人々の信仰もそんなに盛んではない、という説である。

確かに「穀物の神様、いつも食糧をありがとう」とか「海の神様、いつも恵みをありがとう」にはなるが、「天のリーダーの神様、何やってるか知らないけどありがとう」にはならない。会社でも、自分と同じ課の先輩や上司とはよく話すけど、社長とはほとんど話さないし、社長が日ごろ何やってるかあんま知らないよね。

 

次に高御産巣日神(タカミムスヒ)、次に神産巣日神(カムムスヒ)。

次に出現した二柱の神(神様を数える単位は柱。トリビアの泉でやってたね)。「むすひ」というのは要は創造とか生成とか発生のことである。文学者にここ説明させると、ほぼ100%君が代の「苔のむすまで」の「むす」がそれである、と言ってくる。

この二柱の神は、アメノミナカヌシと違って後でまた活躍するシーンがある。タカミムスヒには「高木神」という名前で再登場。やっぱり木って神様なんだね。カムムスヒは後で他の神様を生き返らせたりしている。男塾で言うワンターレンみたいなもんである。

 

此の三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまふ。

はい、実は以上の神様には性別がないのですね。「独神」。

身を隠すっていうのはどういうことなのか、正直全然わからないというのが筆者の感想。単に「死ぬ」ということなのか?いや、日本の神様は基本死なないし、タカミムスヒとカムムスヒはあとで物語に登場してきている。じゃあ「役割を終えた」ということか?タカミムスヒとカムムスヒは「創造、生成」の神様。いやでも、前述にあるように、カムムスヒは他の神様を生き返らせてたりする。これは「生成」の役割を果たしていることに他ならないのではないか?じゃあ「信仰されなくなった」ということか?まあ確かに古事記が書かれた時点ではこの三神を祭っていた神社はなかったかもね。「姿がない」という意味か?確かに「太陽」や「月」と違って、「中心」とか「創造」っていうものには目に見える姿がない。ともかく、「死んだ」という訳がナンセンスである、ということだけは言えますね。

 

次に国稚(わか)く、浮ける脂の如くしてくらげなすただよへる時に、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯備比古遅神(ウマシアシカビヒコジ)。

地上世界がまだ若く、くらげのように漂っているときに、芽のように萌えるものによって、「ウマシアシカビヒコジ」という神が出現しなさった、みたいな意味。

この神の名前について、漢字に特に意味はない。まんま当て字である。古事記が成立した時代には、まだ平仮名がなかったため、このような表記になっている。「うまし」はそのまんま「良い、すばらしい」の意味で、「あしかび」はそのまま葦・カビ(イネ科植物の穂先)の意、ヒコは男性のことであると考えられている。つまり「あしかびの素晴らしい男の神様」。いやそのままかよ。

 

次に天之常立神(アメノトコタチ)。此の二柱の神も、みな独神と成りまして、身を隠したまふ。

やっぱり以上の二神も独神なのである。アメノトコタチに関しては、「トコ」が実は台地の意味だとか寝床の意味だとかいう説もあるが、あてられている漢字が「常」なので、「天上界の恒常性・永久性の神」という解釈が無難だろうと思う。

 

上の件、五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)。

以上の五神は特別な神様なので、「別天つ神」というグループ分けがなされている。重要な神様であるはずだが、この後も物語に登場するのは「タカミムスヒ」「カムムスヒ」の二神のみである。

 

次に成りませる神の名は、国之常立神(クニノトコタチ)。

さっきのアメノトコタチと対応している神であるのは確実だが、こちらは別天つ神でない。國學院(筆者の第二志望だった大学)の資料によると、「アメノトコタチ以前の神は天上界にしか関わらない神、対してクニノトコタチ以降の神は地上世界の形成にかかわる神だから」という理由でこのグループ分けがなされた可能性があるとか。ちなみに日本書紀では最初に出現した神とされている。なんで記紀で順番が違うのかは知らん。

 

次に豊雲野神(トヨクモノ)。此の二柱の神も、独神と成りまして、身を隠したまふ。

トヨクモノは文字通り雲の神。なんで雲の神様なんか出てくるんだと思うかもしれないが、雲は雨の源であり、特に農耕社会において非常に重要な存在である。古代の人々にとり、豊かな雲は非常に尊いものなのだ。(『豊』は雲ではなく野にかかっている、すなわち『豊かな雲の野』ではなく『豊かで、雲の覆う野』とする解釈の方が有力だけれど。)

 

次に成りませる神の名は、宇比地迩神(ウヒヂニ)。次に妹須比智迩神(スヒチニ)。

スヒチニの名に「妹」とついていることからわかる通り、ここで初めて「独神」ではない、男女が対になった神が登場する。古事記の記述だけだと何の神様か分かったこっちゃないが、日本書記の表記を参考にすると、どうも「宇」が泥で「須」が砂だとか。それで「ヒヂ」は土の意味、「ニ」は土の意味。土ばっかりじゃねえか(さすがに『ニ』は違う接尾語だろうとされている)。

いろいろ言いたいことはあるが、最後にまとめたほうが分かりやすい気がするので、先に進む。

 

次に角杙神(ツノグヒ)。次に妹活杙神(イクグヒ)。

これも男女一対の神様。「さっき泥と砂の神様が生まれたから、今度はそれらを固めて国土を形成する杙(くい)の神だ」という解釈もあるが、「クイ」は「芽ぐむ」の「クム」である、という説もある。あとで詳しく記す。

 

次に意冨斗能地神(オホトノヂ)。次に妹大斗乃弁神(オホトノベ)。

「オホ」は「大きい」の「オオ」と同じで美称、「ノ」はただの助詞、「ヂ」が男の意で「ベ」が女の意というのが一般的な解釈。つまり神名の核となるのは「ト」のみである(ぶっちゃけ「斗神」でもオッケーだったというわけである)。さっきが杙だったから次は戸、すなわち門戸だとする説、があるがぶっちゃけどれも違うと思う。あとで詳しく記す。

 

次に於母陀流神(オモダル)、次に妹阿夜志古泥神(アヤカシコネ)。

今までの男女一対の神様は、名前に共通性があったのに、この二神にはないですね。一般的には、「オモダル」の「オモ」は面、つまり顔、「ダル」は「足る」、つまり完成していてパーフェクトだ、という意味で取られることがほとんど。

これに対して「アヤカシコネ」……。受験生ならわかって当然、古文において「かしこし」とはすなわち「畏れ多い」の意、つまり「あやかしこし」で「ああ、畏れ多いです。」である。

だから、オモダルは「あなたの顔は完成して整いきっている」と言っていて、それに対しアヤカシコネが「畏れ多いです」と返答している…という解釈がある。セリフがそのまま神の名前になるなんて言うのは、古事記ではよくある話である。

 

次に伊耶那岐神(イザナギ)、次に妹耶伊那美神(伊邪那美)。

ここで初めてポピュラーな神様の登場である。パズドラやっていようがやっていまいが聞いたことがあるはず。名前の「いざな」はそのまま「誘う」のこと、つまり男女で誘い合う神だとされている。

 

上の件、国之常立神より以下(しも)、伊耶那美神より以前(さき)を、併(あわ)せて神世七代と称(い)ふ。

はい、というわけで以上が神世七代です。

「12柱じゃねえか!」というツッコミが入るかもしれないが、男女一対のニ神は、二柱あわせて一代である。

 

ウヒヂニ以降の神名については、以下のような解釈がある。

すなわち、「神の名が生命の形成を表している」というものである。

最初のウヒヂニ組は「泥と砂」、つまり生命(芽とか)の原質である。

次のツノグヒ組は「芽ぐむ」、つまり生命力の象徴である。

一個飛ばして、オモダル組は「容姿を褒め合う男女」、つまり男/女としての意識(顔?)の誕生である。

次のイザナギ組は「誘い合う」、ここでようやく男女が互いを誘い合い、初めて結婚する(後述)。要するに、ウヒヂニからイザナミまでの神名は、生命の原質から、新たな生命を生む(≒子孫を残す)能力を持つ男女が完成するまでの過程を表す、と解釈できる。これはすごいことだなー。

そうなると、飛ばしちゃったオホトノベ組の神名はどういう意味なのか。先に神名の核は「ト」であるとしたが、この「ト」は男女の性器ということになる(性交を「みとのまぐわい」と言うことが根拠となる)。こうしたらちゃんと生命の材料→生命力→男女の違い→男女の意識または顔→結婚という流れが完成するよねー、と。筆者はこの説を推したい。

 

ちなみにもう一方の解釈は

ウヒヂニ組の「泥、砂」は土地、ツノグヒ組は家屋を作る際の杙、オホトノベ組は「ト」、つまり門戸、これで家屋が完成するね、というもの。

これだと、イザナキ組で急に男女の結婚の話に移る理由が分からない、という点が弱いのである。「クヒ」だから杙だろう、「ト」だから戸だろう、という解釈もちょっと短絡的すぎる気がする。

ただ、あとでイザナキ・イザナミが地上に八尋殿=広い神殿を建てている、というところを考えると、この時点で家屋を担当する神様がいないとおかしい、と考えることもできる……。でも別にその神殿が杙と門戸を設けているとはどこにも書いていないし、あんまりあてにならない気がする。

 

以上のように、神世七代の神々に神名に連関があると解釈すると、生命の生成みたいなものがめちゃくちゃきれいに順序だてられて説明されていることが分かると思う。

まず、「クニノトコタチ」が、地上世界の恒常性を確保する。

次に、「トヨクモノ」が、地上世界の豊かさを確保する(※)。

そして、ウヒヂニ組からイザナキ組までの流れで、生命が完成する。

これ以降、神が「自然発生する」ものから、「親の神が想像する」ものへと変わっていく、このことからも、こちらの解釈の正当性をサポートすることができるように思う。

 

個人的に、「野」を「雲が覆う」ことは、地上世界と高天原が関係を保つことに繋がるのだとも思う。言わずもがな雲は地上と天の間にあるのであって、しかも雨=天からの恵みや、雷=天からの使い(あとで雷の神様が地上の神様と交渉ごとをしたりするよ)の発生源である。つまり、雲は天の神々と地上世界との中継地点である。天の神は雲を介して人間に影響を及ぼすのである。よって、ウヒヂニ・スヒチニが生まれる前にトヨクモノが出現しておくことには、「地上で生命が生まれる前に、先に天と地の連絡手段を確保しておく」という意味があるのではないか、と考えてたりする。